今回は、健康経営研究会や健康長寿産業連合会などの団体に参画し、健康経営の普及に貢献され、またスポーツクラブルネサンスを運営する株式会社ルネサンスで健康経営企画部部長として自社の健康経営の取り組みを推進する役割も担う樋口毅氏に、健康経営の現状とこれからについてお伺いしました。前編は、現状の健康経営中でのつまずきやすいポイントについてお話を伺い、後編では、健康経営の定義の深化の背景と、健康経営と「人資源の資本化」の関係についてお伝えしていきます。社会の変化に対応し、深化する健康経営NPO法人健康経営研究会については、わたし自身も理事を務め、以下にご説明する深化版のとりまとめも担当させていただきました。本日はこのような立場から、これからの、健康経営の基本的な考え方について、お伝えさせていただきたいと思います。これまでの健康経営は、法令遵守や安全配慮義務等の国からの要請の視点も含めて、企業のマネジメントの中で、自社の社員の健康を「守る」ための戦略を第一として考えてきました。しかし、これからの健康経営を、より時代に合った経営戦略に進化させていくためには、社外からの「人資本」に対する投資を「創る」ための戦略を、企業が積極的に推進していくことが、求められていくと考えています。健康経営も16年の歳月の中で、色々取り組んできましたが、世界全体の社会構造が大きく変わった現在、「人資本」を戦略テーマとして掲げることが、 日本の企業を活性化する礎になると確信しています。日本の発展に貢献するために、これから先10年の社会の変化を見据え、これからの健康経営は、「企業が社員の健康を管理すること」から、「人資源の資本化による企業と社会の発展」に変化していくと考えています。このことは、NPO法人健康経営研究会(以下、研究会)が、健康長寿産業連合会、健康経営会議実行委員会とともに、2021年7月に「未来を築く、健康経営 ―深化版:これからの健康経営の考え方について―」(以下、深化版)で提示しています。2021年NPO法人健康経営研究会により発信された深化版の健康経営のモデル図※出所:NPO法人健康経営研究会ホームページ 2006年当時は、企業防衛としての健康経営を問題定義「健康経営」は、2006年にNPO法人健康経営研究会が提唱しました。前提となる「人資本」としての基本的な考え方は、今も変わりはありません。しかし設立から16年で、社会状況は大きく変化し、2006年当初に予測してきたことが当たり前の社会となりました。1995年に高齢社会対策基本法が制定され、その前文に、わが国の高齢化が急速に進展することの危惧が記載されました。一方、労働安全衛生法によって、事業者には労働者の健康診断が罰則付きで義務付けられてはいましたが、健康診断の有所見率は増加の一途でした。当時は、「やりっぱなし・ほったらかしの健診」といわれるように、企業では、法令遵守を重視し、定期健康診断を受診させることのみが目的となり、事後措置としての異常所見者を改善するための取り組みは十分に行われていませんでした。その結果、高額の健康診断の費用を拠出しているにもかかわらず、費用対効果が十分に得られているとは、全く言い難い状況でした。こうした社会状況の中で、労働者の健康が、企業経営に及ぼす影響はますます深刻になるであろうとの危惧がありました。そのような背景のもと、当時は、「健康経営」を以下のように定義していました。2006年時点の健康経営の定義 ※出所:NPO法人健康経営研究会「未来を築く、健康経営」令和3年7月 健康経営とは、「企業が従業員の健康に配慮することによって、経営面においても大きな成果が期待できる」との基盤に立って、健康管理を経営的視点から考え、戦略的に実践することを意味しています。当時は2020年の未来に向けて、企業が社員の健康管理を適切に行い、働く人の高年齢化に対応することが企業経営に不可欠であるという考え方を打ち出したのです。現在、働く人の高齢化が企業の中で一層に進み、今までに経験したことがない、さまざまな課題が企業の中に生まれつつあります。例えば、現在、一番多い労働災害は、転倒や腰痛などの行動災害です。特に転倒災害は、第三次産業の55歳以上の高年齢の女性社員に一番多く発生しています。今後、再雇用年齢の引き上げや、定年制度を撤廃する企業も増えてくると、高年齢社員の認知機能の低下や認知症の発症、フレイル等の健康問題が企業で発生する可能性が高まります。今後、企業が商品やサービスの質を担保するためには、従来の労働安全衛生活動を中心とする作業環境の質を担保に加え、高齢化する社員の健康の質を維持・向上していくことが、一層に求められるようになってきています。このように、2006年当時、NPO法人健康経営研究会では、社員の健康への投資を通じた企業の持続的な成長と発展の必要性を伝えてきました。※出所:労働災害の年齢別割合(職場のあんぜんサイト<厚生労働省>より作成)人を中心とする経営が一層に求められる時代へ2021年に発表した深化版では、2030年の社会を想定し健康経営を捉え直し、「人という資源を資本化し、企業が成長することで、社会の発展に寄与すること」と定義しました。新たな健康経営の定義※出所:NPO法人健康経営研究会「未来を築く、健康経営」令和3年7月 従来は、利益を上げ株主に還元できる企業が市場での評価を受けてきましたが、これからは、株主資本主義から、公益資本主義(ステークホルダー資本主義)へとその価値観が大きく替わってきています。今、まさにSDG’sやESG投資と相まって、目の前の株主のためだけではなく、社会的な責任を果たし、自社の持続的な成長と発展を通じて、社会の発展に貢献できる企業が、社員を含めた、全てのステークホルダーから高い評価を集めていく時代に突入しています。健康経営を立ち上げた当初から、人資本の必要性は伝えてきましたが、ここでは、深化版の健康経営において、なぜ人という資源を資本化することが、これからの企業経営において、最も大切なテーマになるのかお伝えします。社員を生活者として捉える視点からこの10年で人の消費行動が大きく変わりつつあります。その象徴的な変化がエシカル消費です。これは、生活者が、商品やサービスを購入する際には、生産・物流の過程の中で、労働搾取や人権侵害、環境破壊等がないように配慮されたものを選択するという考え方です。従来の、「大量生産、大量消費、大量廃棄」の時代から、「持続可能な商品の生産、循環、持続的な発展」へと、未来に向けて、社会が大きく転換しています。このような変化の中では、自社の社員を生活者として捉える経営の眼が一層に必要となります。エシカル消費に貢献することが社員からの信頼を獲得することに繋がります。Work Life BalanceからWork in Life へイギリスの組織論学者、リンダ・グラットンが提唱した「ライフシフト」という考え方は、これまでのライフステージで区分した考え方とは異なり、人生100年時代での「マルチステージ」の生き方を、提唱しています。まさに、これは「人の生きがい」に焦点をあてた考え方です。これまでの、社会の中での自分という位置づけ、企業の中の自分という位置づけから、自分にとっての社会、自分にとっての企業、あるいは、自らが働く場を選択するというスタイルへと移行しつつあります。また、こうしたスタイルの変化は、このコロナ禍でのデジタル化により、一気に加速しました。従来の、「Work Life Balance」という、働くことと生活(家庭)をトレードオフ(二項対立)で考える働き方から、モバイルワーク等の在宅勤務を中心に、生活の一部に働くことがある「Work in Life」へと働き方が大きく変化しました。これからは、働く場所に拘束されないことで、自由な暮らし方の選択ができる社会へと移行していくことになります。こうした流れは、兼業・副業が当たり前の社会へと繋がっていきます。今までのように企業に勤め、時間で切り、管理される働き方型ではなく、自分が居心地のいい生き方や働き方を選択する、「仕事は人生の中の一部分である」という考え方が広く浸透していくことになります。企業は、こうした変化をいち早く先取りし、企業経営を考えていく必要があります。Cost to Capitalでの視点改めて、人々が健康であることは、ビジネスの観点からも重要です。何度も繰り返しますが、健康経営を一言で言うと、「人という資源を資本化すること」です。人資源=コスト(費用)から、人資本=キャピタル(資本)へと投資を転換させることが重要です。日本は、今、少子高齢化社会へ突入していますが、人口減少により国力が衰退していく中で、これからも日本が強い国であるためには、一人ひとりの生産性を高めていくことが必須です。そのためには、社員を人資本としてとらえ直し、新しい企業価値を創造するための投資と考えることが大切です。会社の資本=社会の資本と考えることで、企業が社員のパフォーマンスを引き出していくことが、一層に重要視されていきます。つまりが社員の心と体、そして社会的な健康への投資がとても大事なのです。人が生み出す新しい価値とはルネサンスの社員が生み出した2つの価値についてお伝えしたいと思います。1つ目は「元氣ジム」という、運動によるリハビリ特化型デイサービス事業です。元氣ジムには、リハビリの専門家である理学療法士と運動指導員が常駐し、医学的視点から安全で効果的なプログラムを提供しています。この事業は、運動機能が低下し、スポーツクラブでの運動実施が困難になっていく家族を持つ、一人の社員の想いからスタートしました。「いつまでも、自分の足で歩きたい。」そう願うご本人や家族はたくさんいても、その願いを叶えることができる場所は、当時にはありませんでした。そのような現状の中で、歩く力を取り戻すことで、社会とまた繋がり、そして一人ひとりの元氣を創る。こうした社会課題の解決を価値に換えていく新しい事業を、外部の理学療法士とのパートナーシップのもとで生み出したのが元氣ジムです。「安心感とワクワク感の融合」をコンセプトして、一般的な介護施設や病院っぽさを、できる限り排除しています。その上で、理学療法士による本格的な機能改善のためのリハビリと、グループエクササイズなどのスポーツクラブ運営のノウハウを組み合わせた、介護事業としては全く新しいプログラムを展開しています。2022年9月末現在、リハビリステーションを含めて、直営26店、FC13店、合計39施設を全国に展開しています。2つ目は、「ルネサンス オンライン ライブストリーム(ROL)」の立ち上げです。ルネサンスは、このコロナ禍に、政府や自治体からの緊急事態宣言の要請を受け、お客様がスポーツクラブにご来店できない状況に陥りました。この状況は、スポーツクラブを支えてくれている大切なパートナーである、業務委託契約インストラクターも働く場を失うことになりました。このような中で、問題意識を持った社員がすぐに動き出しました。スポーツクラブには、来ることができないお客様に対して、どうしたら運動ができる環境を提供できるだろうか?また、大切なパートナーであるインストラクターを、どうしたら支えることができるのか?考えた成果として、構想から半年で「ルネサンス オンライン ライブストリーム(ROL)」という新しいサービスが立ち上がりました。現在は、ライブとビデオオンデマンドで、週720本以上のオンラインレッスンを提供するサービスにまで発展してきています。わが社だけではなく、きっと、どの会社も、過去から現在に至るまでに、新しい価値が生まれているはずです。そして、その瞬間には、必ず「その価値を生み出した社員」がいるはずです。全てにおいて変革をもたらす原動力は、人の意識、信念、知識です。わたしは、みなさまが健康経営を実践し、その中で、人(社員)と社会と会社(仕事)の繋がりから新しい価値が生み出されることを、心から楽しみにしています。※健康経営は、NPO法人健康経営研究会の登録商標です。