2020年の経済産業省による健康投資管理会計ガイドラインではステップ1〜ステップ4まで健康経営を進める上での効果的なSTEPを定めています。今回は、健康経営のトップランナーの一社である株式会社ルネサンスの樋口 毅氏にお話を伺いました。また樋口氏は、健康経営会議実行委員会の主催や、NPO法人健康経営研究会 理事や健康長寿産業連合会 事務局長などのお立場で団体に参画し、健康経営の普及に貢献されています。またスポーツクラブルネサンスを運営する株式会社ルネサンスで健康経営企画部部長として自社の健康経営の取り組みを推進する役割も担っています。前編は、現状の健康経営の広まりの中で、つまずきやすいポイントについて参考になる考え方や健康経営の研究成果についてお伝えしていきます。人手不足の中小企業で健康経営に関心が集まる私は、株式会社ルネサンスで自社の健康経営の推進、NPO法人健康経営研究会の理事をつとめています。また2013年からは、健康経営会議実行委員会の事務局長としてとして広く社会に健康経営を普及する活動を続けています。2019年ごろから健康経営という言葉が、広く知られてきたことを肌で感じています。特に、多くの中小企業が健康経営に取り組みはじめています。その背景には、人手不足があります。人材採用が難しい中で、善き人にわが社にきて、一緒に働いてほしい。そして、従業員には健康で長く働いてほしいという、経営者の思いが健康経営に取り組むきっかけとなっています。 実際に、健康経営優良法人の申請数は中小企業において大きく伸長しています。しかしながら、全中小企業数 が約357万社である現状を考えると、取り組む企業が確実に増えているとはいえ、健康経営を市場化していくためには、さらなる仕組みや仕掛けづくりを推進することが求められます。特に、現在の政府主導の健康経営を、早く民間の力でデファクトスタンダードに深化させていくことが必要です。※出所:健康・医療新産業協議会 第5回健康投資WG 事務局説明資料「なぜ、取り組むのか?」で足踏みしている企業も多い健康経営に取り組む企業数が、いまよりももう一段階、増えていくことを期待しています。そのためには、今、企業で何が足踏みとなり、問題になっているのでしょうか?現場で企業の健康経営の導入支援を行っている立場から見えてくるのは、健康は大切だという概念が当たり前すぎて、「なぜ、わが社が健康経営に取り組む必要性があるのか?」ということをあえて経営戦略として取り組む必要性を感じていない経営者が多いということです。言い換えると、企業における最大の経営資源である「人(従業員)」を活かしきれていない企業が多いということなのかもしれません。2020年には健康経営コラムにおいて、健康経営にはマーケティングの視点でPDCAサイクルを回すことが必要であるとお伝えしました。よい健康経営が実施できている企業では、「なぜ、取り組むのかというWHY?」、「誰を重点対象者にするのかというWHO?」、「どんな取り組みをするのかというWHAT?」、「重点対象者にどう働きかけるのかというHOW?」が整理され、戦略として動かされ、PDCAサイクルにより改善が図られていることをご紹介しました。※出所:株式会社ルネサンス提供マーケティングの視点でPDCAサイクルを回していくことの重要性は今後も変わりません。しかしながら、多くの企業の健康経営の取り組みを見ていると、何らかの従業員への健康投資は行われてはいるものの、その多くは、法制化への対応が中心であり、取り組みに対する「WHY?」が圧倒的に欠けているように思います。まずは「今、取り組んでいること」を見つめ直そう企業の健康経営の取り組みを支援している現場では、「何からやっていいのかわからない。そもそもそんなお金も人の余裕もない」という声が聞かれます。本当にそうでしょうか。そのような場で私が投げかける質問があります。「健康診断は何のために行っているのですか?」皆さんの企業でも健康診断は実施されていますよね。では、「なぜ、健康診断に取り組んでやっているのでしょうか。」と、問われたらどのようにお答えになるのでしょうか?「法律や就業規則で定められているから」多くの方はこのように答えます。この場合、健康診断の目的は、法令遵守のためにやっているということです。では、そのために、企業はいくら投資しているのでしょうか。定期健康診断については、企業によっても異なりますが、人件費や管理コストを除き、外注の場合には、医療機関等に一人あたり、おおよそ1万円ほどの費用を支払っています。従業員1,000人の企業であれば1,000万円です。1,000万円の利益を出すためには、いくらの売上が必要になるのでしょうか?仮に利益率が10%であれば、1億円の売り上げが必要になりますよね。従業員規模にもよりますが、いずれにせよ大きな金額です。それでは「なんのために健康診断に1,000万円をかけているのですか」こう問いかけると、果たして経営者は、法令遵守コストのために投資をしていると答えるのでしょうか?それが例え法制化への対応が導入の動機であれ、すでにお金も人手も投資しているのであれば、経営者は必ず、その投資対効果を考えるのではないでしょうか。その結果として、その企業にとっての真の目的となる、「なぜ、取り組むのかというWHY?」、「誰を重点対象者にするのかというWHO?」ことを経営の視点から再考することができるようになります。例えば、「社員自らに、自身の健康を把握する力を持ち、健康維持・増進できる自律的な人材を求めたい」という企業もあるでしょう。その場合は、従業員が自分の健康診断の結果を翌年の受診までにどれだけ改善できるのかというのがテーマになっていきます。そのためには、健康診断結果の経年変化を各自が追えるような仕組みや、そもそもの健康診断での検査項目を自分ゴトとして理解し行動に移すことができるような健康リテラシーを高める機会を提供することが必要になるかもしれません。また「わが社は従業員の高齢化が進んでいる。健康診断をしっかり受けて、早期発見・早期治療で長く元気に働いてほしい。そのための投資だ」という企業もあるでしょう。この場合のテーマは将来も長く働き続ける力を養うために、認知機能低下防止や、フレイル予防など、高齢化に伴い必要となる健康リテラシーの向上を働きかけながら、きちんと再検査や精密検査、要治療などの健康診断結果に基づく、事後の受診勧奨をしっかりと行うことなどが考えられます。このように、すでに当たり前に取り組んでいることであっても、「なぜ、取り組むのかというWHY?」、「誰を重点対象者にするのかというWHO?」の観点で、従業員の健康と経営を両立して考えることで、その企業での経営戦略としての健康経営が生み出されることになります。ストレスチェックも同様です。ただ法令を遵守するということではなく、ストレスチェックが法制化された背景をしっかりと理解し、「なぜ、ストレスチェックに取り組むのかというWHY?」、「誰を重点対象者にするのかというWHO?」の経営戦略の視点からとらえなおせば、「職場の高ストレス者を把握し対処する」だけではなく、ストレスが生まれる原因となる、仕事の量や、仕事の裁量権、上司や同僚からの支援等、「職場をいきいきと元気にするために、マイナスの状況をいち早く把握し対処する」ための手段とすることができるはずです。今の課題を価値創造に換える未来創造型の経営の視点健康経営を戦略として考えるためには、人資本をどれだけ高められるかが鍵になります。人はそれぞれにポテンシャルをもっていますが、そのポテンシャルは引き出さないとパフォーマンスにはつながりません。これが、「人資源を資本化する」という視点です。その一方で、企業には多くの課題があり、そのための解決をどうすればよいか、といったことを経営者は毎日のように考えていると思います。VUCAの時代ともいわれる先が見えない現状の社会背景の中では、企業は課題解決にフォーカスしがちです。ですが、多くの場合、課題解決はマイナスをプラスマイナス0にするまでの取り組みが中心になります。例え成果が出たとしても、それは「当たり前の成果」であり、モチベーションが下がってしまうのも無理ありません。目の前の課題を今あるものとしてシンプルに捉え、そこから改めて未来に意識を向けることで、閉じ込められていたポテンシャルを引き出していくということが、今まさに多くの企業で必要とされているのだと思います。前述のように、健康診断の結果課題を解決することで、高齢であっても健康で元気に働くことができる自律した社員を創造することや、高ストレス対応を業務改善や組織改善に活かし、安心で安全でイキイキとした職場づくりに取り組むことなども、未来に向けて、今ある課題を価値創造に換える経営の眼となります。こういった未来創造型のマインドを持つことが、健康経営の戦略視点でもある「社員のポテンシャルを引き出し、パフォーマンスを上げる」ということにつながっていくのだと思います。他社の具体的な取り組み事例も参考に一連の健康経営戦略を理解するためには、他社の取り組み、成功事例を参考にすることも有効です。経済産業省などでも健康経営の取り組み事例集は作成されていますが、より具体的な内容の事例集をわたしたちは2022年3月に公開しました。これは健康産業にかかわる企業・業界団体が主体となり、わたしも事務局長をつとめる健康長寿産業連合会が作成した「健康経営先進企業事例集」です。この事例集では、「WHY(目的)、WHO(重点対象者=目標)、WHAT・HOW(施策の実行)、EVALUATION(評価・改善)」までが一覧で確認できる構成になっています。特に「どんな取り組みをするのかというWHAT?」の項目では、外部サービスを利用している場合は、具体的なサービス名まで記載しました。サービスを選ぶ時の参考になることでしょう。※出所:健康長寿産業連合会「健康経営先進企業事例集」サービス産業の健全な成長が健康経営の拡大には不可欠健健康経営の取り組みは、自社だけではなく、多くの企業との共創のもとで実現していくことが求められます。上述の「健康経営先進企業事例集」をご覧いただいても、多くの企業が、様々な外部パートナーと連携していることがわかります。今後、健康経営を社会に拡げていくためには、健康経営に取り組む企業が増えていくことと同時に、健康経営をビジネスとして支える企業が生まれていくことで、健康経営を大きな市場に成長させていくことが必要です。ここ数年で、健康経営に関連するサービスが非常に増えています。これは、大変に良い流れだと思います。ですが多くの企業情報があふれるなか、自社に合ったサービスを適切に選択するのは難しいものです。改めて、自社に合うサービスをみつけることの第一歩は、自社が解決、あるいは、新たな価値を創造したいというテーマを明らかにすること、そして重点対象者を設定することが何よりも大切です。目的と目標が明らかになれば、自ずと有効なサービスを提供できる企業を探索することが可能になるはずです。今回の事例集では、先進企業の取り組みから、これから健康経営に取り組む企業が、サービスを選択する上での一助を担いたいという想いも込められています。わたしたちは、今後も健康経営市場の発展という観点から健康経営を推進していきます。健康経営の取組成果が見えてきた健康経営が拡がっていくためには、健康経営が経営に与える効果を明らかにしていくことが重要です。近年では、各社の健康経営の取り組みの成果が、ホームページなどで公開されるようになってきました。例えば、「健康経営銘柄」に2015年から8年連続で選定されている情報・通信業のSCSK株式会社では、以下のように、働き方改革と生産性向上の同時実現の達成や、健康経営の取り組みの成果として、健康リテラシーと行動習慣、行動習慣と生産性、そしてワーク・エンゲージメントやプレゼンティーイズム、アブセンティーイズムの検証結果を公開しています。今、ステークホルダーとのコミュニケーションとして、人的資本投資の効果を積極的に開示する先進企業が増えています。※出所:SCSK株式会社ホームページまた近年では、建設業、製造業等、採用活動が進みにくい業界においても、健康経営の取り組みを自社のホームページで積極的に公開することで、エージェントを通さずに、直接、求人の応募が来るようになり、採用コストを節減することができるようになったという中小企業もあります。このように健康経営に先進的に取り組んでいる企業の中から、経営改善の成果を確認することができます。また最近では、個社だけではなく、健康経営に取り組む企業全体の効果検証が行われ始めています。※経済産業省の2022年6月の「健康経営の推進について」での発信では健康経営を開始する前の5年以内(上図赤棒)では、売上高営業利益率の業種相対スコアは負を示し、業種相対で利益率が低い状況であることを反映している一方で、健康経営を開始した後の5年間(上図青棒)では、業種相対スコアは正の値を示す傾向にあった。健康経営に対して学術的な関心が高まっており、今後は、さらにこのような研究成果が社会に公開されていくことになるでしょう。研究成果が後押しとなり、ますます健康経営が広まっていくことと期待しています。後編(近日公開予定)では、健康経営の定義の深化の背景と、健康経営と「人資源の資本化」の関係についてなどお伝えしていきます。※健康経営は、NPO法人健康経営研究会の登録商標です。